+++ミルクセーキの恋+++

 


目の前にあるのは乳白色の氷菓子。
盛られたアンティークカップは深海色で、菓子の柔らかさをその硬質さで引き立てている。
陶器のスプーンで掬えば、とろりとした甘さとスープのようなコクが舌で溶けた。
くどくさえ感じる甘い甘いその菓子は、けれど驚くほどあっさりと喉を過ぎ、氷の冷たさと後を引かないかすかな塩のさわやかさだけが口に残る。

「どうかな、ドランさん」
「初めて食べたけど、とても美味しい。なあパティ、これはなんて言う名前なんだ?」
「くじらのミルクセーキ、だよ。良かった、口に合ったみたいで」

目の前のミルクセーキを作った彼女はふわりと笑った。
鯨のしま模様とそっくりな、不思議な髪色をした娘だ。
限りなく黒に近い蒼い瞳を嬉しげに細くした少女に一瞬見惚れる。
ずっとずっと母親だと言う鯨の背中、埋まっていると言っても過言でもない潜水艦の残骸で暮らす彼女の肌はとても白い。先輩が言う人を惑わすと言うセイレーンや、下っ端海上コックではお目にかかれない王宮に住むという深窓のお姫様のようだ、とドランは柄にもなく思う。
彼女は歌が下手な鯨の子で、王宮ではなく鯨の背に住む異形だと話していたが。
それでも嵐の中海に放り出されて遭難した自分を助け、こんなに美味しい珍しい菓子を惜しげもなくともした相手に、好意を抱くなと言うのは難しい。

「いや、本当に美味しい。店を出しても良いくらいだ」
「言い過ぎだよ。これはまだ未完成品なんだもの。でもお世辞でも嬉しい。ありがとう」
「未完成だって?何が足らないんだ?」
「バニラだよ」
「ばにら?」

コクン、と頭を振った彼女の言葉にドランは首を傾げた。
ドランは豪華客船の厨房の下働きをしている。世界中の
美味しい食材を、一番早く知れる立場だ。誰より食いしん坊だと言う自負のあるドランでも聞いたことがない食材である。不思議そうな顔をしたドランに、彼女は焦がれるように窓の外で揺れる空の光に目を移した。

「ミルクも卵も砂糖もも何とか代用品を見つけたけれど、バニラだけは海にはなかったの。陸の香りなのね。海には無いものだから仕方がないけれど」
「どんな香りなんだ?」
「甘い、あまい・・・・・・砂糖よりも甘い香りよ。無くてもミルクセーキは作れるけれど、バニラの持つ香りこそがこのお菓子の存在感を際だたせるのだと私は思っているの」

そう口にした彼女は先輩と同じ、妥協を許さない料理人の目をしていた。悔しそうな口調に、未熟な自分が抱いているそれと同じことを感じとり、ドランは静かに思いを馳せた。砂糖よりも甘い香り。そしてこのミルクセーキに合うという未知の食材だ。興味のわいたドランはぽつりと言う。

「俺が代わりに探してきてやるよ、パティ。助けて貰ったお礼に」
「ありがとう、ドラン。でも気持ちだけでも十分よ」


ーーーーーーぱちん、と夢が弾けた。もう十年も前の話を見ていたようである。
窓の外を横切った亀のせいで、ドランはこのときのパティの表情を見逃した。嬉しそうだったのか、悲しそうだったのか、あるいは両方を備えた顔だったのか。
前者だったらいいなとドランは手の中の小瓶を握りしめた。
あの日、鯨の背に張り付いた潜水艦の中で絶品のミルクセーキをごちそうして貰ったあと、ドランは嵐に見舞われながら無事だった元の客船にこっそりと戻された。海に投げ出されて行方不明になったのは、駆け出しでさえないひよっこドランだけで、ドジだ奇跡だといろいろな人に背中を叩かれたのを覚えている。お礼を言おうと振り返った時にはもう、パティが乗っている潜水艦をくっつけた鯨の姿はなく、ドランはその日から陸にいればバニラを、海に出れば鯨を探すようになった。客船で働きながら腕を磨き、舌の記憶を頼りにミルクセーキを再現しようとな何度試みたことだろう。似たような菓子を口にする機会もあったが、パティが作ったミルクセーキとはほど遠く。世界中を旅する生活の中、バニラに出会えたのは奇跡のようだった。
あまい、あまい、砂糖よりも甘い香り。言葉でしか知らなかった香りなのに、それが彼女の言うバニラだと確信できたのは、あの完璧だと感じていた彼女のミルクセーキの”足りなかったもの”だからだ。あの塩辛い海に無い、陸の土を吸って生まれた大地の香り。
この香りがあのミルクセーキにかかったら、それはもはや天国の菓子になるのではないだろうか。

「パティ、これを君に」
「え、あなたの大事なものではないの?」

10年、時間の許す限り探していた潜水艦のついた鯨の上。再びここに来れたのは運としか言いようがない。この航海で諦めようと決めていた、最後の晩の嵐の日。往生際悪く看板に出ていたのが良かったのか悪かったのか。高波に浚われて遭難したら、この焦がれたパティの住む潜水艦の中にいた。
何十にも油紙に包んでいた小瓶の中のバニラは無事で、コルクをひねれば広がる、恋の香り。

「バニラだわ!!」
「ねえパティ、俺のためにまたミルクセーキを作ってくれないか?」
「もちろん!ありがとう、ドラン!大好きよ」

自分の腕に飛び込んできた彼女は、ミルクセーキのようだった。








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